ニチコン メニコン 日本のコンタクト

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日本でどのようにコンタクトレンズが生まれていったのかの歴史を振り返ってみましょう。


日本初のコンタクトレンズ

コンタクトレンズの原理を発見したのはレオナルド・ダ・ヴィンチですが、日本では、昭和24年(1949年)に名古屋大学病院の水谷豊博士が初めて臨床実験を行いました。 戦後の復興の兆しがようやく見え始めた頃、一人の高校生の患者と母親が訪れたことがきっかけでした。

高校生は右眼、左眼とも視力が0.1に満たず、病名は円錐角膜と診断されます。角膜の中心部が円錐状に突起する病気で、物が二重に見えたり、変形して見えたり、眩しく見えたりする症状があり、1万人に1人の発病率です。

メガネでは矯正できず、成績が落ちて本人も家庭も暗くなっているという訴えに、ドイツの医学書で紹介されていたガラス製コンタクトレンズと似たものを作ることを思い立ちます。

知人の歯科医に相談し、プラスチック成型技術を学び、大学病院を辞めて眼科医を開業して試作を続け、昭和26年(1951年)に日本初のコンタクトレンズを完成させました。 その後、昭和33年(1958年)に兄と現在の株式会社日本コンタクトレンズ(略称:ニチコン)を創業しています。

 

日本初のコンタクトレンズ開発メーカー

創業以来コンタクトレンズの総合メーカーとして、開発、製造、販売を行い、技術のニチコンとして知られる株式会社日本コンタクトレンズ。日本初のコンタクトレンズを完成させたのが、創業者である水谷豊博士で、1958年に本格的生産に乗り出すため、「合名会社日本コンタクトレンズ研究所」を創業したのが、現在のニチコンの前身です。

現在のニチコンは多様化、高度化していく眼科医療に対し、的確で迅速なサポートを行っています。 開発部門では、各種学会、大学病院、眼科医療機関と相互交流を図りながら、理想的なレンズの追求をテーマに取り組んでいます。

製造部門では、宮崎県に製造工場を置き、医療機器のQMS(医療機器の製造管理及び品質管理基準)に基づく一貫した管理体制を敷いています。 販売部門では全国の販売ネットワークを通じて眼科医療機関からユーザーに届けられる他、販売スタッフも眼科医との対話をベースにさらに高品質のコンタクトレンズの開発に活かすようにしています。

 


日本初の角膜コンタクトレンズ

1951年に日本初の角膜コンタクトレンズを開発した株式会社メニコン。 開発者で創業者の田中恭一氏が当時勤務していた眼鏡店「玉水屋」跡地は、“コンタクトレンズ誕生の地”として記念プレートが設置されています。

その後、メニコンは新しいレンズ素材やデザインの開発、製造技術の向上、生産・品質管理体制の整備を進め、常にコンタクトレンズのパイオニア企業として業界をリードしています。

現在のメニコンの社長は眼科医でもあり、安全性にこだわった安全哲学憲章を定めています。 同時に高品質な製品開発を進め、快適さと便利さを備えたコンタクトレンズの製造を心がけています。

2002年にメニコンテクノステーションを設立し、コンタクトレンズを中心とした眼科医療機器全般にわたる生産技術の開発拠点としました。主に製品の素材研究を行う総合研究所と一体になって、素材から製法まで一貫した自社研究開発体制を取っています。 他に社会貢献事業として白内障を患った盲導犬に無償手術も行っています。

 


日本初の角膜コンタクトレンズメーカー

日本で初めて角膜コンタクトレンズを開発した田中恭一氏は、株式会社メニコンの創業者でもあります。1950年に勤務していた眼鏡店で、アメリカの将校婦人から自分が持っているコンタクトレンズの話を自慢げに聞かされた田中恭一氏は、ぜひ見せて欲しいと懇願しましたが、大事な宝物だからと断られたことに発奮しました。

それなら自分で作ると独学でコンタクトレンズの開発に取り組み、デザインの設計、加工、装用実験を独自に行いました。

開発したコンタクトレンズの装用実験は自分自身の身体で行い、自転車に乗った時の風圧の影響や川に飛び込んだ時に水圧で外れたり、ずれたりしないか、水の中で眼を開けられるかなど失明覚悟で改良を重ねたそうです。

1951年にそれまで研究されていた白目まで全てを被う強角膜レンズではなく、黒目のみを被う現在のハードコンタクトレンズとほぼ同じタイプを日本で初めて開発しました。 1952年に現在の株式会社メニコンの前身である研究所を創設しています。

 

・コンタクトの歴史コーナー 【目次】

  1. コンタクトレンズ市販
  2. 日本のコンタクトレンズの歴史
  3. 日本でのコンタクトレンズの普及率